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文:吉田公平
第二十八回
「アリとキリギリス」
話がすこし難しくなったので話題を変えたい。
童謡に「待ちぼうけ」というのがある。今も歌うのであろうか。
この歌の種は中国古代の『韓非子』にある。そこでは時代錯誤を笑う譬えに引きだれているのだが、「待ちぼうけ」の方は「せっせと」働かなくなった者を戒める話になってしまった。
例え話とは説得術の一方策にすぎない。だから同じ例え話でも文脈の中で果たす役割は同じではない。諺も同じ。
「可愛い子には旅をさせよ」とは他郷に出向くことは多くの困難にであう時代のことであった。かけがいのない子供を立派に成長させようと願う親は、親元に置くばかりではえてして過保護になり、ひ弱に育つことを恐れて、「他人の飯を食い」、「他流試合をして」、たくましく成長し頼もしい後継者となることを期待して、しぶる子供を敢えて旅立たせた。いまや海外旅行をエンジョイしたいすねかじりが、親に金を出させる時の切り口上だという。
子供のころに、アリとキリギリスの話を聞いた。絵本でも読んだと思う。
暑い夏の間、アリさんはせっせと働いているときに、キリギリスさんはバイオリンを奏でている絵が描いてあった。雪の降る冬を迎えたキリギリスさんは一夜の宿と食を乞うてアリさんのお家を尋ねるという。勤勉を勧める訓話であった。
この話を素材にして、学生諸君に「アリさんはキリギリスさんをどのように処遇するのがよいと思うか」を尋ねると、その反応は大筋、四通りに分かれる。
第一。アリさんが冬に困難に追い込まれたのは怠けたからであり、自業自得である。助ける必要はない。追い返したらいい。
第二。来年はちゃんと働くのよと懇々と諭した上で、助けてあげる。
第三。キリギリスさんは自分は冬を越せない動物であることを知っている。だから冬になって死期が近いことを察知したキリギリスさんは終末をアリさんの所で迎えるつもりで訪ねてきた。アリさんはターミナルケアを十分にした上で、キリギリスさんが死んだならば、アリさん達は自分たちの食料として蓄えたらよい。他者の命を頂いて生き延びる事は生物の宿命なのだから、このことを以てアリさんを非情と非難することはできない。この理(理)を身にしみて弁えているからこそ、自らは勤勉に努力し、他者の生を尊重し、その命を頂くのだと。
第四。酷暑の中ではたらき詰めであったアリさんは、実はワーカーホリック(仕事中毒)であった。中には過労死する者もあった。そのような折に、何処からともなく聞こえてくるキリギリスさんが奏でる楽の音に、仕事の手を休めて休息するのだった。冬になってキリギリスさんがアリさんを訪ねてくると、アリさん達は夏の間にキリギリスさんの音楽に慰められ安らぎを与えられたことを感謝して、大歓迎して今後はキリギリスさんの音楽活動を支援することを約束した。
学生諸君の反応は、実は大半が第一・第二のタイプである。第三・第四のタイプはめったにいない。第一のタイプが多いのは、勤勉を勧める訓話として教え込まれてきたからである。それに次いで多い第二のタイプは、頭から突き放すのは博愛主義に反すると感じて譲歩した考えであるが、勤勉・怠惰という視点で読み込んでいる点では第一のタイプと同案であり、これはその亜種といえる。第三のタイプが少ないのは日頃、理知的に考えることになれていないからか。また、第四のタイプが少ないのは、実は驚きであった。父親の世代に比べると、若い世代は極めて恵まれた音楽環境の中で育っている。日常的に音楽を十二分に堪能している若い世代なのに、キリギリスさんをアーティストとして積極的に評価する意見が皆無に近い。一度すり込まれた価値観から自由になることがいかに困難であるかをまざまざと見せつけられる思いであった。
皆さんはどのようにお考えですか。四通りとはまた別の理解の仕方もあるでしょう。我々が「自由に」「自前で」考えることを邪魔しているものは、いろいろあるでしょうが、無意識のうちに身に着けてしまっている考え方や価値観を、時にはさらし上げてみることが、我々を呪縛から解放してくれる契機になるのではありませんか。
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