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文:吉田公平
第二十七回
「実感信仰」
その人が実際に体験して身体感覚として感得したことこそ真実であると主張するのを、実感信仰という。
大悟体認のいいかえである。五感や第六感で感得する感性の世界をかつては「知覚作用」といった。
この知覚作用の世界を「知る」「分かる」との関係を視野に納めて立論したのが『知覚の現象学』である。
メルロー・ポンテーを初めて読んだのは、いつのことだったか。王陽明の「本体・作用」論・知行論の理解に苦心していたときであった。それなりに分かったような気分にさせられたのは、訳者がすぐれていたからだと教えてもらったのは、ずっと後のことである。
はたして理解できていたのかどうか、まことに心もとないが、それでも頭の体操になったことは確かである。
「知る」にせよ、「分かる」にせよ、言語化された知識の世界を対象にすると考えがちである。既成の知識を学習する時には、それは「知る」とか「分かる」とかは、普通はいわない。そこにはその人なりの発見はない。先学先人の所得を受容したに過ぎない。
しかし、受容することの意義が小さいことを意味しない。むしろ逆である。
受容は語彙の世界を豊かにする。その人が知覚した経験の内容を明晰にし定着させるのに、語彙の豊かさが決定的に大きな役割を果たす。
「あっ」と感覚した時に、それを身体感覚に自閉させたままに「わたしは体認した」と確信して自己満足する向きがある。その世界は言語では説明しきれない、あるいは言語化すると体認した本質を取りこぼしてしまうと言って、言語機能の不全性を前面に打ち出して、敢えて言語化することを拒否してしまう。
確かに言語は記号であるから、体認した内容を丸ごと説ききることはできない。そもそもが言語化するとは、感得した内容を意味つけること、抽象化することであるから、まるごと全体を表現することではない。
この抽象化・言語化されなければ、体認した内容を自分の経験として明晰に定着させることはできない。言語化することを一等下ることのように誤解して、「体認」を標榜してそこに居座る者は、明晰に理解すること・つまり言語化することを怠って、思索することを抛棄した似而非の学者にすぎない。
言語化を拒否することは、他者に向かって「共に理解すること」を閉ざすことになる。他者に冷淡な知的態度である。言語道断(言語の道は絶たれている)というのは、この意味でこそとんでもないことである。言語を媒介にすればこそ他者の所得を理解できるし、他者にメッセージを送ることができるのである。
感性や感覚は直接的であるが故に強烈である。それこそはその人固有の経験であるから、他人の介入を許さないところがある。しかし、一己の内に閉ざされたままでは、その是非善悪の妥当性を検証することすらできないではないか。
「実感」は「理解すること」の基礎ではあるが、言語化されないと次の瞬間には消えてしまう。
「感性」の所得を言語化することは、理解するために不可欠の必須の過程である。
「体認」を強調する論調が、中国哲学研究の進歩を大きく阻害してきた。
哲学以前に居直ることがもたらす弊害の大きさを痛感してきたがために、贅言を弄してしまった。
体認・大悟そのものを軽視する意図は全くない。
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