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文:吉田公平
第二十六回
「体認の陥穽(おとしあな)」
本当に分かることを力説したのは禅学の徒であった。
究極の原理を探求するために、臨済宗では「公案」を提唱した。曹洞宗では「只管打坐」(ひたすら坐る)ことによって禅の本義を「本当に分かる」ことを求めた。「忽然として大悟する」とか「大悟徹底」とかいって、本義を開悟することに自己の全分をかけた。
俗解(世俗的な理解)・習気(生活の中で身に付いてしまった価値観)から自由になるために「大疑」(大いに疑うこと)を力説したのも禅学の徒であった。
禅学の原理は簡易であるがために人を強く惹きつける。この大疑・大悟の構造を社会倫理学の中に導入したのが、朱子学とか陽明学である。
朱子は「豁然として貫通する」といい、王陽明は「体認する」ことを主張した。
ことほどさように禅学も新儒教も「本当に分かる」ことをおろそかにはしなかった。中にあって朱子の場合には知識を重視したのに対して、禅学と陽明学は「大疑・大悟」「自得・体認」を重視して「知識論」を軽視した。原理が簡易であること、その原理が歴史性を超越して主張されたために、今日でも根強い支持者に恵まれている。
しかし、その簡易さは大きな陥穽に人を導くことがある。その大悟体認とは、事柄の性質上、その人一人に固有のものであって、それを他者が共有することはできない。他者は改めて自己のこととして大悟体認を求めるしかない。つまりは大悟体認の所得はその人の限りのことであって、どれほどに徹底した大悟体認であっても、そのままでは普遍性をもたない。
個別性に止まる大悟体認を、他者と共有しようとするときに取られる方法の一つは、同じく大悟体認することを他者に促すこと。もう一つは所得の内容を言語化することである。
言語化することに最大限の努力をしたのが朱子学であった。それに対して禅学と陽明学は、大悟体認の所得を全面的に言語化することは不可能であることを盾にとって、むしろ言語化することによって引き起こされる負の側面を強調し、直接的に大悟体認することを力説した。
この簡易な原理を信奉するものは、大悟体認したと称される先師先学の所得に励まされて自らも大悟体認したと開悟するか、或いはそれに翻弄されるか。開悟したのか、翻弄されたのか。その人自身のことだけに本当のところは分からない。
大悟体認がその人だけの所得だけに、開悟下と自認する人は、他者に対して、往々にして「あいつは分かっていない」と厳しく非難しがちである。毅然として、傲然と他者を断罪する姿は、はたから見ると「格好いい」ようにみえるが、要するに不寛容なのである。
この不寛容さが修行の厳しさと誤解されている。この大悟体認が世俗化したのが実感信仰である。
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