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文:吉田公平
第二十五回
「情報と知識と体認」
今は情報化社会であるという。
情報として伝達される中身は知識である。知識が伝達されるのは今に始まったことではない。伝達の手段は口承口伝から文書へ。文字の発明が時間と空間の制約を超えて情報を伝達し、蓄積することを可能にさせた。第一次情報化社会である。
文書が印刷され、大量に頒布されて、写本の時代から印刷に時代になった。第二次情報化社会である。
更に電信・電話を経て電子機器の時代になり、情報の量と速さが飛躍して社会の仕組みや産業の構造に大きな変化が生じ、個人と国家と国際社会の在り方が激変した。
今は第三次情報化社会である。情報処理の技術と機器は進歩し続けるのであろう。勢い知識を取得する仕方が昔のままではあり得なくなる。記憶することの価値が低くなる。情報を智慧蔵に蓄積する技術、あるいは智慧蔵に蓄積された情報を引き出す技術を多彩に身に着けることが緊要となる。
ここではその情報がいかなる体系の中にあるのかは一義的には問われない。知識がそれ自体として構造や体系をもつのとは異なる。情報と知識の違いを端的に現す徴表である。
いわば情報とは利用する駒である。利用者が駒を駆使して体系を作る。関連性・体系性がない方が自由に使える。知識の断片である情報は「分かる」こととは直接には結びつかない。情報機器を自由に使いこなすという人が案外に論文が書けないのは、情報を断片として操作することを楽しんでいるからだろうか。
誰かが「分かった」ことを言語化したのが知識である。
その意味では知識には「知った」あるいは「知る」主体がある。
ところが情報とは知識が無人格化したものである。だからこそ万人向けに流通するわけだが、人格が捨象されたが故に、「分かる」こととは直接のつながりはない。
その情報が持つ意味を本当は「分からなくとも」操作することはできる。勢い、「分かる」ことの意義を忘却しかねない。「本当に分かる」という「体認」がさしたる意味を持たなくなる。
「分からない」ままに情報をあやつる技術者が満ち溢れることになる。
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