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文:吉田公平
第二十三回
「遠きことは近きに在り」
ロマンチストは「遠く」を外に求める。夢を見る。理想主義者でもある。
その夢は遠ければ遠いほど魅力がある。すぐに実現するとはとても思えないからこそ、それを夢に見、理想として掲げる。
その典型はアナーキズム・無政府主義であろう。
人々を支配し拘束する政治権力がなくなり、解放された人々が自由意志のもとに、社会の秩序を維持し、人々が本当の自分を自力で実現できて、お互いに幸せな生涯を送ることが出来る。
国際間はもとより、国内問題から、日常の身辺に及ぶまで、利害や好悪が絡み合って、権力闘争やいさかいが渦巻き、悲劇に満ちあふれている現実社会の反照である。
政治の場から徹底的に避難する生活を送ろうとするのが「隠者」である。
政治的軋轢が激しく、しかもそこから退隠することが厳しく戒められている政治風土の社会ではこの「隠者」志向はいっそう強くなる。
陶淵明の「桃花源記」はそれを集団で実現していた人々の生活のありさまを象徴的に表現したものである。
打ち続いた戦乱を山中に避けた集団がその当時は各所にあった。それを背景にして陶淵明が作品化したのがこの「桃花源記」である。桃源郷の語源でもあるが、この桃源郷は漢字文化圏の文人墨客の詩画の格好の題材となった。
無何有郷・ユートピア、どこにも実在しない社会。大状況が丸ごとに理想のままにある社会。そのような社会はこれまでもなかったし、これからも実現しないであろう。
一般論としてそうであろう。
しかし、わたしたちは、ある国の、ある地域の、職業人・社会人・家庭人としての「わたし」として生きている。
投げ出したい責任とか、担いたくない役割などを引き受けながら、なんとか生きている。
飢餓・戦乱・疫病などに見舞われない限り、時に翻弄され苦難に直面しながらも、生きようとする。
この生命力はどこから来るのか。
生物としての生命力を発揮させるのは無意識の意志なのか。
それにしても、それを促すのは「遠き」ことの可能性を身辺の「近く」に発見するからではないだろうか。
逆に最も身近なことが「遠き」ことを求める「意志」を阻喪させる。
我々は弱くして、しかも強い存在なのかもしれない。
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