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文:吉田公平
第二十二回
「遠くへ行きたい」
遠くへ行きたい。
誰もが一度ならずそう思うときがある。
日常生活の場から離れたい。身辺の雑事から解放されたい。いつものあの顔を見たくない。遠くへ行きたいという思いは、具体的な用事があってそれをやり遂げるために出かけるというのとは違う。
「遠く」は漠然とした観念であろう。
非日常的であればいい。窓辺から見える向丘の朝日に光るよその家でも、我が家から見える憧れのお家なら、遠いお家であろう。
仕事がお休みであった日に、その向丘のお家の近くまで遠足に出かけたところ、そこからは自分のお家が遠くに素敵に見えたという。
明治六年生まれの九十二歳で亡くなった祖母が「自分は幸せであった」ことを話してくれたとき、その思いでの中にお伊勢参りをしたこと、在郷を離れる機会に襲われなかったことを挙げていた。
東北地方の田舎に生まれた祖母にとってお伊勢参りは文字通りの遠くへの旅であったろう。一生一大の異国体験であった。それがお参りであれば楽しくないはずはない。
当時は庶民の生活空間が狭かった。逆に在郷(「ぜいご」と言っていた)のその外に行くのは、お祭り以外には、徴兵の時とか役所に呼び出される時である。そういう目に遭わなかったから自分は幸せであったというのである。
出かけるというのは、「山のあなた」であっても、歩いてその日のうちに帰れる距離の所に出かけることであった。そのころの通婚圏がそうであった。
今では交通・通信・物流の手段が著しく発達したために、「遠くへ行きたい」という時の「遠く」が果てしなく拡大してしまった。宇宙や地下、海中や海底すらも技術的は可能である。
その世界を伝える情報もあふれている。
「遠く」を切れ切れに体験されしまっているので、「遠く」が拡散されてしまって、もはやかつてのようにロマンをかきたてることはなくなった。
いわば「遠く」が日常化してしまったのである。
ロマンチック街道を旅しても、既に知っていたことの再確認の旅でしかない。だからこそ安心して出かけるのであろう。
仮想現実を創作する技術が進んでその仮構の世界が人々を惹きつけるのは、「遠くへ行きたい」という願望をかなえてくれる、もう一つの「遠い」世界だからか。
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