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文:吉田公平
第十九回
「美味しい」
「美味しい」食べ物を食べることができたときは、思わず「幸せだなあ」と実感する。
かつて郷里の岩沼市に住んでいたとき、搾りたての牛乳を飲むことができた。そのころ子供がルビー色の朝焼けの中を自転車に乗って出発し、白光色を前面に浴びながら運んできた。西方の連山を遠く眺めながら、沸かしたての牛乳を飲むたびに、「生きている」という至福感に満たされていた。
わたしは美食家ではない。素食主義を良しとする。素材をそのままに美味しく食べられたらそれで満足である。
小学生の頃から牛の世話をさせられたから、美味しい牛乳ができる仕組みは知っていた。だからであろうか。牛乳の美味しさを思い起こすたびに、学校から帰るや乳牛を小屋から連れ出して草を食べさせた少年期がひとしお懐かしい。
このごろ、食べ物を扱う広告や番組が目につく。
「美味しい」食べ物が「どこで売られているのか」というのが多い。
かつては「美味しい」ものが話題になるときには「どのように調理するのか」とか、「その食材はどのようにしたら手にはいるのか」とかが関心の的であった。
さらにはその食材の種や育て方を尋ねて、自分で栽培し、それを素材に自前で調理して、賞味したものである。
もちろん素人料理だからお金を取るようなことはしない。野趣あふれる田舎料理だったが、素食主義の美味に満ちていた。
商業主義に煽られて味覚まで犯され、それでいて「あそこの何が美味しい」などという。グルメには縁のない素食徒の舌にも「美味しさ」がわかるものかどうか。何でも「美味しく」食べられるものだから、「助かる」という人と「面白くない」という人がいる。
食は栄養とカロリーが基本である。それすら満たされないことが多い。人口爆発と自然破壊は食糧難を将来する。それでも人は「美味しさ」を求めるのであろう。
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