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文:吉田公平
第十三回
「生前と死後(前世と来世、前身と後身)」
わたしが生まれる前を生前といい、死んだ後を死後という。
生まれる前の世界を前世といい、その時のわたしを前身といい、死んだ後の世界を来世といい、その時のわたしを後身という。
仏教でいう三世説(過去・現在・未来)である。
今に生きている現身(うつしみ)が、本当のわたしではないというものはおっても、そのように思っているわたしが実在していることを疑うことはできない。(デカルトや荘子の胡蝶の夢の話は示唆に富む)。古人が前世や来世を信じたのは、今のわたしを確認したかったのであろう。
前世や来世があるのか、それともないのか。宗教や宗派によって応答の仕方は多様である。また、個人によっても様々であろう。
現世にかくのごとく実在していることの理由を前世に求め、現世にいかに生きるかは死後に受ける裁きに密接につながる。
それを幻想と断案して、実在するのは現世のみと達観する向きもあろう。
いずれにせよ、この間題は、われわれが誕生を自分では選べないこと、そして死を回避できないことのために起こる。
日々に生きること、それも人間らしく生きることは、生活の糧があれば、あとは覚悟の問題である。
それも考えてみれば決して容易ではない。そのための生活の知恵は、我々の手が届くところに示されていることが多い。
また、次世代の誕生に関する情報も豊かである。それに比べると、われわれが自分の死に対してどのように対処したらよいのかを考えさせる知的資源は、あまりにも貧弱ではないか。
他人が、あるいは肉親が死を迎えるに当たって、終末の介護をいかにするかについては、高齢化社会を目の前にして、制度についても個人の心構えについても、にわかに語られるようになった。
しかし、肝心のことが欠けている。
当の本人はいかに死に立ち向かったらよいのか。
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