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文:吉田公平
第十二回
「好悪という感性」
真実は我々の前に常にある。
しかし、それを我々は、習慣にさえぎられて、見切れていない。惰性にまかせて通念を安易に承認してしまいがちである。
一一疑っていたのでは円滑に生活できない。
しかし、生活の場で「あれ、おかしいぞ」と感じたときは、その感性を大事にした方がよい。その時は、自分でもよく考えて調べたりもし、他人にも自分の疑問を投げかけてみることだ。「ほんとにおかしいね」と同意してくれる人もおろう。
習慣を相対化するはたらきを、「無」の機能という。 相対化するとは自由になることでもある。
それを触発したのは感性であった。
それを「好悪」と言った。「好き嫌い」である。
習慣に溺れたままに「好き嫌い」にまかせるのはどうかと思うが、その好悪という感性習慣を相対化する契機にもなる。
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