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文:吉田公平
第十回
「雑草と醜悪」
王陽明の『伝習録』に花と草を対比させて人々に固定観念から自由になることを呼びかけて語録がある。
庭に咲く花の美しさがわたしたちの心を喜びで満たしてくれる。お花のお世話をするのは、美しく咲く花を期待してのことであろう。手入れの不手際や気候の変動などがもとで、予期したほどに美しく咲かなくとも、お花のお世話そのものを楽しむことができる。
造園家の庭作りとは別に、市民のお花作りがもてはやされるのは、花の美しさを求めるその作業が喜びに満ちているからであろう。自然の営みに人間がちょっと加担する。充実感が得られる所以である。
その中で、妻虫の駆除と雑草の抜き取りが厄介である。お花の生育が最も盛んな時は、害虫にも雑草にも好条件の季節であるから、その対策は容易ではない。
しかし、ある虫を害虫といい、ある草を雑草と決めつけるのは、野菜や花井の生育を邪魔するので、人間が勝手に命名しただけで、初めから害虫や雑草があるわけではない。雑草も薬効が認められれば薬草となる。
このようなことはいっでもどこにでも見られることながら、無意識のうちに固定観念に縛られて、考えることも無しに、決めつけていることが少なくない。同じものでも視点を変えれば異なった評価の下されることは珍しくない。
王陽明は、既成の価値観・思考様式から解放されて、一旦は白紙状態に還元して、考え直すことを勧めた。そのような思考過程をとることを「無」と表現した。これは「無い」という意味ではない。「自由になれ」というメッセージである。
「綺麗なお花」が誰にも「締麗」に見えるわけではない。「大根の花」に可憐さを見る人がいても少しも可笑しくない。芋虫が可愛くて掌に載せて愛でる坊やを叱る権利は誰にもない。
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