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文:吉田公平
第八回
「道と死」
死について孔子は次にようにもいう。
「朝、道(本当のこと)がわかったら、その日の晩に死んでもいい」(『論語』里仁篇)。
孔子は「死にたい」といっているのではない。道を求める気持ちがとても強かったことをいっているのである。「わからない」ことが人を不安の深淵に追い込むことを考えれば、この孔子の言葉は千金の重みを持っ。
「わかった」からといって、わかった当のその人が「わかった」そのことを担いきれるとか、解決できるとか、いうのではない。
しかし、生きていく上で肝心なことについてわからなければ、無知暗黒の中に投げ出されて徒生(無意味に生きる)するだけではないか。
なまじ、わかつてしまうと、そのことに立ち向かわないわけには行かない。一旦は立ち向かうものの、誰もがその重荷を担いきれるわけではない。だから、わからないほうがよい、教えない方が幸せだといって、愚民政策を積極的に推進した時代もあった。
しかし、例えば、行く先のわからない乗り物に乗せられて、幸せを実感する人がいるだろうか。
地獄行きの列車なら乗り換える準備の仕様もあろう。よしんば楽園行きの列車であったにしても、行き先がわからないままでは不安で仕方があるまい。
孔子は「わかりたい」と切に願いながら生き続けた。そして「道がわかった」としても、その道はいかに生きるかを問う道であったから、生きることとは問い続けることであった。
かつては戦争・飢餓・病気が三大死因であつた。今の日本は平和憲法を持ち、飽食になり、長寿を謳歌している。さらに、核家族化が進み、地縁・血縁の結びつきが希薄になり、親しい者の死を身近に経験する機会が少なくなった。それでいて事故死がすぐ側にある。
人の死が無機物のように扱われている。死を軽視する者は生をも軽視する。このかけがいのない生を愛おしむ心が育たない。
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