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文:吉田公平
第四回
「三今(いま)と此処(ここ)(1)」
わたしたちは、いつでも誰でも、歴史の最先端に位置して生きています。最先端の先―未来―はまだわたしたちの前に現れてはいません。未来は文字通りにまだきていませんから当たり前のことです。先ほどのわたしは過ぎ去り、もはやそのときのわたしは実在しません。過ぎ去ったわたしはすでに歴史の中に記録され、人々の記憶の中にしか存在しません。歴史の最先端の時間を「今」といます。わたしたちはこの「今」という時間、いいかえると歴史の最先端の瞬間にだけ存在します。この「今」は刻々と流れます。わたしたちが真に存在するのは「今」という瞬間であると捉えてそれを「現在」といったのは中国の明代にいわゆる「陽明学」を開創した王陽明(1472−1528)です。現実存在を中の二文字をとって実存と標榜したのは、実存主義者たちでした。この現在という捉え方は納得するしかないと思います。
わたしたちは、自分がどこにいるのか、ということについては、日ごろからはっきりと自覚しています。「どこ」というのは空間です。ただし、空間という表現は、部屋の空間・宇宙空間などといい、三次元の世界を抽象的に表現するときに使うのが一般的です。日常の会話には空間よりは「場所」のほうが親しみやすいでしょう。「どこの場所」に居るのかを自覚したり話題にするのは、「場所」を自宅とか教室とか駅前などと知覚でき、具体的に記憶できるからです。「今、どこにいるの」と所在を尋ねたりするのは、おたがいに「ある場所」に居ることを了解しているからです。
ところが、時間は見ることもできなければ触ることもできません。「今、何時」という問いは、何時何分という時刻を尋ねたのですが、この時刻そのものは知覚できませんから、針が空間を移動することで時間の推移を計ることになります。時間そのものを把握したのではありません。「時間があるの」と尋ねたときも、決して時間というものを所有していますかと尋ねたのではありません。
わたしたちが「生きる」「生きている」「生きていく」ということを考える場合、「どこで」「どのような地域で」「どのような職場で」「どの国で」などと、「どの場所で生きていくのか」ということが大事な意味を持つことは、誰もが予想します。それは「場所」を実体験でき、或いは映像を介して具体的に想像できるからです。
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